かまぼこの起源
かまぼこの起源がいつ頃かというと、日本書紀の時代に、熊襲を滅ぼし、新羅を征服した神功皇后(西暦170年?269年)が、百済への援軍を自ら率い、筑紫の国布陣の際、味方の士気を高めるため、蒲の茎先に魚のすり身を敵方の鉾(ほこ)に見立てて塗り付け焼いて食したのが始まりだという説がありますが、他にも同皇后がかまぼこを食した場所は生田の杜であるという説もあります。 いずれもその根拠となる古文書、記録などが見つかっていませんので、作り話であろうとも言われています。 ? ※熊襲(くまそ)は古代、南九州に住んでいた部族。 ※古代、朝鮮半島には、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)の三つの国がありました。 ※筑紫(つくし)の国は、現在の北九州または九州全体のことをさします。生田の杜は、現在の神戸市辺り。 ? わが国の文献に登場するのは、平安時代の「類聚雑要抄(るいじゅぞうようしょう)」が、初めてといわれています。
平安時代の文献に登場するかまぼこ製品
日本で生まれたかまぼこ製品は、保存が目的というよりも魚をよりおいしく食べるための画期的な加工技術です。 かまぼこ製品がわが国の歴史に初めて登場するのは平安時代初期。当時の古文書の中に祝いの宴会料理のスケッチがあり、そこにかまぼこが記録されています。実際には、これよりも昔から棒の先に魚肉のすり身を付けて焼いて食べていたようです。このころのかまぼこはちくわに近いものでした。
蒲の穂が名前の由来
かまぼこの形は、今のちくわに似ていました。写真に見られるように植物の蒲の穂によく似ていることから、「がまのほ」と呼ばれていました。また、蒲の穂は鉾(ルビ:ほこ)のような形だったことから、「蒲」と「鉾」がくっついて「がまほこ」となり、やがて「かまぼこ(蒲鉾)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
細工かまぼこ
細工かまぼこは、鯛や水引などの形にかまぼこを成形したもので結婚式の引き出物として利用されています。製品には富士山、巣ごもり鶴、松竹梅、鯛などの色彩豊かな図柄や巻きものがあり、昔と比べ生産量は少なくなりましたが、全国各地で祝儀ものとして作られています。 調味すり身を着色して伝統的な切り出し、刷り出し、絞り出し、へら細工、型細工などで成形したものを蒸すのが一般的な細工かまぼこの作り方です。 そのうち、切り出しかまぼこは、金太郎飴と同様に異なる色に着色したすり身を積み上げていき、その切り口が鶴や松などの図柄になるように仕上げたもの。刷り出しかまぼこは、用意した多数の紙製の抜き型を、1枚ずつ板に載せては異なる色をつけたすり身を塗り重ねていき、1枚の絵に仕上げたもの。絞り出しかまぼことは、ノズルの付いた絞り袋に着色したすり身を入れ、ケーキデコレーションと同様の手法で絵を描いたもの。この3つが細工かまぼこの代表といえるでしょう。
厚焼き
鉄の角鍋で表裏両面を焼き上げ、すだれで巻いてないもの。普通品は200gで関西をはじめ西日本で生産され、伊達巻より甘みが少なく、身が締まっているのが特徴です。
板付けかまぼこの登場
板にすり身をつける製法が生まれたのは、室町時代の末頃とされています。
室町時代の末期の「大草殿より相伝之聞書」に「うすを能すりてすりたる時、いり塩にみずを少しくはえ、一つにすり合板に付る也。付ようは、かさをたかく本うらにおなじ様に付べし。・・・・・あぶりやうは板の方よりすこしあぶり、能酒に鰹をけづり煮びたし候て、魚の上になんべんも付あぶるなり」とあり、板にすり身をつけて焼いていたことがわかります。
このように板付きかまぼこが生まれたことにより、従来の蒲の穂型のかまぼこは、切り口が竹の輪に似ているところから「竹輪(ちくわ)」と呼ばれるようになったようです。
さらに、江戸時代になると湯煮することが行われ、江戸時代末の「守貞漫稿」(1837?1853)には、「今製は三都ともすぎ板面に魚肉を推し蒸す。蓋(けだし)京坂にてはむしたるままをしらいたと云。板の焦ざる故成。多くは蒸して後焼いて売る。江戸にては、焼いて売ること無之(これなく)。皆蒸したるのみ売る」とあり、
江戸では蒸しかまぼこが、京阪では、蒸してから焼いた焼きかまぼこが主流であったことがわかります。
蒸しかまぼこは一時に大量に処理できる上、江戸では産地と消費地が近いため、もっぱら蒸しかまぼこが売られましたが、京阪神では、大阪・兵庫・堺などの産地から京都まで運ばれていたために、腐敗を防ぐため、一度蒸したものをさらに焼くという製法がとられていたのでしょう。
この名残りは、現在も東京と関西のかまぼこの形態の違いとなって残っています。東京は小田原に代表される蒸しかまぼこが中心であるのに対し、大阪では、蒸してから焼いたものが多いようです。
江戸時代中期になると、いわゆる「細工かまぼこ」と言われるものが登場します。
着色の方法については、ウニや卵黄を入れたり、植物や樹脂から採った染料で紅く、イカ墨を使って黒く、青菜をすりつぶした汁を加熱して浮いた葉緑素を集めて青く染めるなど、その他にもさまざまな工夫を凝らしていたようです。
明治に入って35年頃から機械文明と漁業の能率化によって大衆食品となり広く親しまれるようになりました。特に第二次世界大戦後、食生活の改善により大いにその需要が高まり今日の盛況を見るにいたりました。